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とその脇港の油之浦(津)が明文化を運ぶ唐船などの出入りを盛んにしたのである。
島津氏は伊東氏攻略に油之津を軍事利用している。外浦は唐船など海外交易の商港として位置づけていたのか遠路の唐船は戦乱の中でも入津し、唐物を売り捌くこともあった。山東から攻め込んだ伊東軍が、目井港の唐船から唐物を買い、槍の穂先に結んでいる風景も伝えられる。(日向記など)
戦国期に伊東氏と和睦を計るため使僧を、豊後の大友氏へ送るのにも、油之津を利用している。飫肥豊州家も島津船を仕立てて琉球や明国と交易しており、南蛮渡来の「くじゃく」「虎の皮」など珍重な品を足利将軍に献上している。

 

永正17年(1520)夏、遣明の細川船が外浦に入津した。遣明正使は相国寺西堂の僧瑞佐で、勘合符に疑義があるとして渡海を許されず拘留され、約2年にわたり油之津に滞留した。
当時、大内氏は、足利将軍を牛耳る程の権勢をふるっていた。勘合割符は本来、将軍自身が許認可するものだが、大内氏はそれをもわがものにしていた。細川氏はライバルの大内氏の頭越しに将軍に頼んで、止むなく旧時代の割符を入手した。細川船が外浦で勘合符改めを受けると、すでに大内氏の命令は島津氏に届いており、細川船はそのまま渡海禁止となった。
大永3年(1523)春、細川船は許されて明国寧波に着いてみると、僧宗設を正使に大内船が到着していた。副使には飫肥安国寺首座・月渚英乗であった。ところが明朝の待遇に怒った僧宗設が、細川船の正使・僧瑞佐を斬殺した。大内船は倭寇と化し明国政府をゆるがす大乱となった。史上に知られる「寧波の乱」が起こった。
僧宗設の刃に倒れた僧瑞佐は、ほぼ2年間油之津に滞ったとき「日下一木集」を著している。中世の油浦の西岸高丘に営む臨江寺や梅ヶ浜の名梅花を詠み、著書に収めている、日下一木集には「海南之油浦有寺日臨江々々迺空岩和尚開基也」と記し、「題油浦之梅浜之名梅花」を遺している。
さらに瑞佐は「日南油浦之梅浜有一禪院日慶運々々者栄與五院其一也」と記録した。瑞佐が梅浜の梅花を賞でるほぼ50年前の文明期、飫肥安国寺の桂庵玄樹も梅ヶ浜の禪寺に唐渡りの名梅花を詠んでいる。油之浦に遊んだ瑞佐は相国寺前住の待雨が飫肥安国寺にやって来た折、安国寺首座の月渚と連句会を催している。京の高僧らは飫肥安国寺をよく訪れた。かつて桂庵が確立した朱子学を学ぶこともあったが、なによりも飫肥に流入する明文化に触れるためであったという。中央から避遠の日南には当時、明の先進文化が溢れていたのである。大陸に窓を開いた油之津、外浦が果たした大きな役割である。
豊臣秀吉の九州平定で伊東氏は飫肥入城を果たす。天正16年(1588)のことだが、このころ日明交易の中継国の琉球諸島を荒らす八幡船が中ノ島郡司・日高太郎左衛門有益の兵船に捕らえられた。賊魁は渡辺与太郎、黒木甚之助、東与助と名乗る日向油之津の海寇であった。一団三隻の八幡船団で、水夫らをふくめ相当数の人数盛が考えられ、油之津周辺に住む集団であったのだろう。油之津を基地とする八幡船団は、遣明船に従って明国沿岸にも群れた。
勘合貿易は天文20年(1551)大内氏が亡ぶと同時に終えんする。すぐに倭寇が再燃した。明国は室町幕府に使者・鄭舜功を送り、倭寇の禁を求めた。弘治2年(1556)のことで、鄭舜功は「日本一鑑」を著した。自ら船で日向沿岸の港を視察し、港の地図を作っている。日向を八幡船の巣窟とみての巡察であったのだろう。日本一鑑では日向倭寇の根拠地を列挙し、沿岸諸港を基地とする70余隻が明国沿岸を襲ったことに触れ、日向の八幡船取締りを幕府に訴えている。
日本一鑑には志布志、外浦を表したが、油之津(油浦)は「油不郎」と表記した。またポルトガル船による海図には、南九州を薩州13郡、大隅州3郡、日向州5郡とし、浦津を11としている。そのうち油之津は「暗孛竦」と表記、志布志は「審孛署」とある。
徳川幕府はやがて平戸・長崎に海外交易の窓口を開いた。鎖国政策の強化で東支那海の海路は閉ざされたため、日隅の港は急速にさびれ、1世紀に及んだ“港千軒”の繁栄は油之津など日向沿岸から消えた。
飫肥城に島津豊州家が健在であったころとみられるが、15世紀後期には島津船を仕立てて海外交易に取り組んでいたことは前述の通りだが、豊州家もまた油之津で造船したことが考えられ、当時海外渡洋のできる大型帆船の建造技術があった。遣明の堺船団が油浦で一隻の新船を建造している。利に敏な堺の豪商が信頼するだけの技術水準があったとみてよい。飫肥の山林には大材が多く良材の造船材でも知られてもいた。
九州平定で功のあった伊東祐兵は、豊臣秀吉により飫肥入城を果たし、文禄・慶長の役で油之津から兵船団を奈古耶に発動した。天正16年の飫肥入城には油津から岩崎稲荷神を奉じて西側の丘に仮鎮座し、のちに飫肥新山に遷した。仮鎮座の地は今も岩崎の地名が残っている。
油津港は西側の陸地に突き出た標高50メートル足らず

 

 

 

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